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=*=*= 長老ノート =*=*=

九大吹奏の長老ノートです。長老の方も、まだ若者!という方も、たくさん書き込みしてくださいね。
また、携帯電話からも書きこみ可能です。左上の[携帯]をクリックすると、その画面からURL取得できます。

 
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▼ H/P開設のお知らせ   [RES]
  山中 [URL]   ..2011/03/21(月) 10:16  No.331
  長老ノートをたびたび使用させて頂いています山中です。
掲載された長文と、載せられなかったデータ等を個人ホームページへ載せましたので、お知らせします。

記載のURLにアクセスの上、表紙画面にある”九大吹奏楽団 長老会1970”をクリック、認証画面を開きパスワード:68hr(すべて半角小文字)を入力下さい。入口頁から長老会1970の頁へ入ることが出来ます。

一度訪問頂ければ幸いです。また、この頁は九大吹奏楽団関係者向けですが、パスワードをお友達へ開示する事は制限しません。



▼ 続 機関紙0号   [RES]
  山中   ..2011/02/14(月) 13:45  No.330
  機関紙0号には林幹夫氏の入部時の思い出も書かれていますので、抜粋してみます。

九大吹奏楽団とともに歩いた4年間 林幹男
・・・・・・・・・・・
私がこの楽団に入った4年前・・・それは今日の状態からは想像も出来ないほどのおそまつな楽団でした。入学式直後、初めて練習に参加した時の印象は今なお忘れることができません。学生会館ホールの片隅に五〜六人が楽器をもち、一人が棒を振っていました。これこそ「細々と」という表現につきるし、まったく寒々とした印象を受けたものです。この時ほどあのホールが広くおもえたことはありません。丁度新入生のオリエンテーションのための練習をしていました。曲は室内アンサンブルかと思ってみると、「旧友」、「学生王子序曲」・・・途方にくれない方が不思議なくらいでした。もっとびっくりした事は、いざ演奏会当日、それも楽屋に集合する頃、今まで見たこともないような人たちが続々と集まり、いつの間にかステージでは二十人に近くなったことです。あきれたり、驚いたり・・・このときが私の九大生としての最初のステージでした。

以来しばらくこの有様でした。指揮者もさぞたいへんだっただろうと同情したくなります。高校まで、四十人近いメンバーでかなり大曲を練習し、演奏を楽しんできた私とっては、どうも期待はずれのようでした。五月末だったと思いますが、「退部届」をだしました。しかしその時、指揮者や部長からいろいろ暖かい忠告をいただき、自分でも「この楽団をよくするのは自分たちではないか。逃げてはだめだ!」と思うようになり、それ以来、やめようと思ったことがとても恥ずかしくなりました。
そうはいうものの、シュトウルム・ウント・ドラングの時代は以前と変わらず、せめて部室でもと部室獲得闘争は真剣でした。私の教養部時代の唯一の有益な結果をもたらした仕事になったようです。

以下省略

所感:書かれた方々の了承も得ず掲載していますが、歴史的文化遺産でもあり、また、発行された公文書でもありますので、許されることだと考えています。当時の部室図面がありましたので添付します。オケやマンクラは九大xxとなっていますが、吹奏楽部には九大がついていませんね。1階の階段脇で出入りに都合のいい場所でした。



▼ 機関紙0号   [RES]
  山中   ..2011/02/12(土) 18:38  No.329
  今、九大吹奏楽団の機関紙があるかは知りませんが、40年前にはガリ刷り色紙表紙綴じの機関紙がありました。編集委員は、68年組の井上和夫と川崎真美です。読み返してみてその一部ですが、ここに写してしまいました。

九大吹奏楽団 機関紙0号 −名前を付けてね!!− そのなかの一文です。

短い昔話  徳富信寛
現在の部員のなかでは、僕が一番古参であるので思いつくままの昔話を書く。僕が入部したのは五年前の秋だったと思う。その頃の練習場であった医学部の音楽室にいった。はじめはバリトンを吹かせられたが、チャラチャラと気持ちよく吹く先輩のクラに魅せられ即刻クラに転向した。ボロのオルシーのクラを渡され膚寒い夜空の下に追い出され個人練習をさせられた。初心者でありボロの楽器じゃ上達するはずがない。半年余り寒い野天練習をさせられた。「お前は音痴だ」と言われて、こん畜生と思い、夜空の星をながめては、何回となくこんな部はやめてしまえと思ったことか。それにわが部の創立者の小の勲さんが、部長兼コンダクターである。一種のワンマンクラブだったので、新米の僕には鬼将軍みたいなものだった。今から考えると過渡期的な状態にあるクラブのまとめ役として最適の人だったと思うし、個人的に下宿に遊びに行くととても歓待してくれたよき先輩であった。
小野さんが出たところで、実はわが部のコンダクターは音楽に魅せられ音楽にほれられ、教養部時代、1、2年は留年するという輝かしいき伝統がある。次のコンダクター原田浩二さんまでは守りつがれたが、次代の林幹男君により無残にも破壊された。古きよき伝統を重んじる一部員としては、悲嘆のどん底の気分を味わった。
第一回の定演は小野さんの指揮で、今よりは楽器の質量ともに貧弱であり、人員の少ない中で慎重にそして果敢に催されたのは驚嘆すべきことだった。依頼二〜四回の定演になるにつれ、若干のマンネリ化と粗雑さとを感じるのは僕一人ではないであろう。しかし、逐年吹奏楽が向上するなかでわが部が成長しつつあるのは認めるし、一大飛躍の息吹を感じるのも事実である。
ただ僕が一番言いたいのは、芸術、音楽を表現する場、美しさと、うるおいと、なごみ、人間性の故郷となったなにかしら感じさせるものであってほしいと思う。そのためには、個人個人のテクニックの向上で勿論ある。が、楽団としてのハーモニーを持ち団員相互の基本的信頼感を生み、お互いの人格淘冶を目ざす心が学生、アマチュアの楽団に一番要求されるのではなかろうかと思う昨今である。
昔話として全然まとまらないけれども、最後に忘れてはならないのは、わが部の創立以来。影日なたになり成長を見守って下さった工学部教授田町常夫先生と小野さん、原田さん、久米さん、船津さん等の所詮牌の「尽力に感謝しなければならないし、先生、諸先輩の足跡に恥じないそしてそれを乗り越える九大吹奏楽団に成長することを祈るものである。

卒試を終わりいよいよ卒業できる日を待ちながら・・・・・
昭和44年2月28日

昭和43年活動記録
 4月12日     歓迎演奏会
 26日〜29日 新入生歓迎合宿(八木山)
 5月19日     ハイキング(津屋崎)
 6月15日     九大祭 音楽祭(九大記念講堂)
 23日     西部吹奏楽際(福岡市民会館)
 7月11日〜17日 定期強化合宿
 8月25日〜30日 夏季合宿(平原青少年野営訓練所)
10月14日〜18日 強化合宿(志賀島)
10月27日     第4回定期演奏会
12月20日     九文連参加(宮崎市民会館)
   22日     クリスマスフェスティバル









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